「...... 私ね、婚約したの」「そうみたい、だね」「その相手ね、五条なのよ」「...... えっ?」 驚愕と戸惑いの滲む声。 ここまでは予想通りの反応だ。 五条が口を挟めない内に歌姫はそのまま言葉を続ける。「目が覚めて、記憶飛んでて、さらに私と婚約してたなんて聞かされて気味悪いでしょ?」「......」「...... 五条。 〝もしも〟の話をするわ」「〝もしも〟の話はあんまり好きじゃないな」「...... わかってる、でも大事な話よ。 ...... あのね、五条。 このまま記憶が戻らなかったら、婚約破棄していいから」 自分の口からここまで言ったのは、自分の心を護るためでもあった。 そして歌姫の覚悟でもある。 五条の目を真っ直ぐと見つめ、捕まえながらそう告げた歌姫はキュッと口を結んだ。 心臓の音が、雨音をかき消してしまいそうな程、うるさい。 どくどくと全身に血が駆け巡っていく。 歌姫が指輪の光る左手をぎゅう、と握る手つきはまるで祈りの仕草のようだった。 五条が歌姫の右手から手を離すと、今度は歌姫の左手薬指の指輪に手を伸ばし、指先で指輪をそっとなぞった。 慰めるような触り方に、張り詰めていた空気がほんの少しだけ和らいだ。「ああ、やっぱりそうだったんだ」 ————やっぱり、と言うのはどういう意味だろうか。 予想していなかった五条の言葉と反応に、今度は歌姫が戸惑いの声を上げた。 心臓の音が次第に落ち着いていくが、五条の言葉の意味が分からず先ほどまでとは違う胸の騒めきを感じる。 五条は歌姫の左手を握り、小さく笑った。「目が覚めて、歌姫が指輪してたの見て結構ショックだった」「え?」「僕ね、高専の時から歌姫の事が好きだったんだよ」「...... へっ?」「二十八歳の僕は、その事を歌姫に伝えてなかったのかな」 五条から好意を向けられていた事をようやく自覚し、そこから五条を意識して付き合い始めたのは事実であるが、彼が高専生の時から好意を持たれていただなんて。 その事実を知らなかった歌姫は目を見張ってしまった。 二十四歳の五条は「何で言わなかったんだろうね」とあたかも他人事のように話をしている。「僕の知らない誰かと結婚するのかと思ったら面白くなくて〝歌姫もらってくれる人がいて良かったね〟なんて言ったけど心中穏やかじゃなかったよ」「そ...... んな素振り見せなかったじゃない」「だってカッコ悪いじゃん。 でも指輪の事を指摘した時の歌姫の顔見て、ピンと来た。 もしかしたら僕があげた物だったのかなって」「私の顔?」「泣きそうな顔してた」「べ...... 別にそんな顔してな、」「してた。 わかるんだよ、歌姫の事。 例え今僕に四年分の記憶が無かったとしても、高専の時から歌姫の事見てたから、わかるんだよ」「......」「だからその指輪を僕が贈った物だって聞かされても何も驚かないよ。 僕なら将来、歌姫と結婚する道を選んでても何もおかしい事はない」 冷たかった指先が五条の熱をもらい、じわじわと暖かさが浸透していく。 五条に包まれていた手を、握り返す。「四年分の記憶が無くなっていようが、歌姫の事を好きって気持ちは忘れてないんだよ」「っ、————」「だから僕の記憶が戻らなかったら婚約破棄していいだなんて、そんな寂しい事言わないでよ」 五条の中に在り続けた恋慕という名前の記憶。 まさかそんなに前から想われていたとは思ってもみなかった歌姫は、突然の告白を受けて言葉を失ってしまってしまい、そして妙な照れくささに包まれて思わず頬を染めてしまった。「全ての記憶を失ったとしても、多分僕はまた歌姫の事を好きになるよ」 ガラスを叩きつけていた雨が、弱まっていく。 まるで歌姫の心を表しているかのように、しとしとと優しい音に変わっていった。 歌姫、こっち来て。 と握っていた左手をそのまま引き寄せて椅子から立ち上がらせると、今度はベッドに座らせた。 五条の脚の間に座らされてすっぽりと包み込まれてしまう。 二人分の重みを支えるベッドがギ、と軋む。 五条は歌姫の背中から抱きしめ、逃さないと言わんばかりの力を腕に込めた。 医務室のベッドの上にいた五条の体は暖かく、まるで子供のようで歌姫は小さく笑ってしまった。 ようやく笑みを見せた歌姫に、五条も笑う。 五条は甘えるように歌姫の肩の顎を乗せ、こてんと首を傾げて猫のように頭を擦り付けた。「それにさぁ、僕は記憶取り戻す気満々なんだけど? 歌姫らしくない事言うじゃん」「うっ......。 私も自分らしくない事考えてるって思ってた、けど......」「まぁ、でも。 僕がもし逆の立場だったら、弱気になる気持ちはわからなくもないな。 それにさ、場合によっては〝もしも〟のことも考えなきゃならないって事も、分かるよ」「......」「あ、でも僕だったら婚約破棄してもいいとか絶対言わないけどね。 もし歌姫が僕に対して好きって気持ち忘れちゃったら、もう一回好きになってもらうようにする」 この男の自信は一体どこから湧き起こってくるのだろうか、といっそ感心してしまう。 五条は良い意味で昔から変わらない。 二十四歳だろうが、二十八歳だろうが。 彼の心の芯の強さは何も変わりがないのだ。
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